鶏肉が嫌いだった話

をする。

 
幼少の頃、わたしは鶏肉が嫌いだった。
あの何とも言えないトゥルッとした食感とか、皮のぶよぶよして噛み切れない感じとか、とにかく口の中で感じる味以外の何かしらが駄目だった。
いつ飲み込んでいいのかわからないのだ。そして噛めば噛むほど不味いのだ。今となっては食べられないこともないけれど、しかしやはり鶏皮は好きではない。
 
特に苦手だったのが、母の得意料理である骨つきチキンの照り焼きのような何かだ。
甘辛くトロみのあるソースにまみれた骨つきチキンは、食べづらさと言い食感と言い、とにかく最悪の相手だった。
そういうわけで、わたしは嫌々それを食していたのであるが、ある時、どうしても我慢ならず、こいつを食べずに済む方法は無いものかと悩み抜いた末、このようなことを言ってみた。
 
「母よ、わたしは食卓に並ぶために殺される鶏がかわいそうに思えてならないのです。それ故、鶏肉を食べたくないのです」
 
すると母はしばし考え、このように返した。
 
「なるほど。では貴様がこれを食べぬことで鶏肉はかわいそうではなくなるのか?」
 
わたしは答えることができなかった。
何せ食卓に並ぼうが並ぶまいが、食べようが食べまいが、鶏肉は鶏肉であって、生きた鶏ではないのだ。
母は続けてこのように言った。
 
「鶏は生き物であろう。しかし鶏肉となればそれは食物である。食物にとって最もかわいそうなことは、それが食べられず捨てられることに他ならぬ。かわいそうだと思えばこそ、食べねばならぬのだ」
 
わたしはその言葉に痛く感激したのだった。
思えばわたしは不誠実だったのだ。ただのわがままに何となくそれっぽい理由を取ってつけ、母を欺こうとしていただけではないか。
誠実になろう。素直になろう。わたしはそう決意し、母に告げたのである。
 
「ちゃうねん、これめっちゃまずいねん」
 
 
その後どうなったのかはあえて語らない。
時は1990年代半ば。片田舎の団地では、毎夜どこかしらで家から締め出された子どもの泣き声が響いていた。
そんな時代の話である。